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大震災 記録その1

2011.03.19.Sat.12:46
3月11日午後2時40分過ぎ、地震がこの国を襲った。

私は東京渋谷の恵比寿駅近くにある会社いた。
会社は小さな編集プロダクションで、全員で4人のスタッフ。
11階建てのビルの9階、間取りは、玄関からそのままリビングになって左右に2部屋のある2LDK。社長室はドアで仕切られ、もう一部屋の扉はない。リビングの窓よりに私のデスクがあり、ノートパソコンで仕事をしている。
その日は、取材で出ている人間もいなくて、4人が全員そろっていた。これは、よかった。
私はその日は、山口の友人がカナダスキー旅行から帰って、トランジットのために泊まりにくる予定だった。
2時過ぎに彼女から成田に到着したという電話があって、話をした。これから成田エクスプレスの時間を調べて東京に向かいますという話をした。
そんなところに、地震が来た。
まあ、地震はちょくちょくあるし、揺れ始めはかすかな揺れで、リビングにある流しの前でお茶を入れていたスタッフに「地震じゃない?」って声を変えたら、「えー、そうですか?」くらいな揺れだった。
それから、揺れがだんだん激しくなる。いつもの揺れと違う。
社長が社長室から出てきて、女子二人もデスクを離れ、リビングに近づく。それがよかった。
私はとにかく怖くなり、大きなテーブルの下に半身を入れ、椅子にしがみつく。女子一人は、玄関ドアを空ける。
今まで行きてきたなかで、最大の恐怖だった。9階は揺れる。
その時間がとっても長かった。収まるまでが長かった。
遠い場所の地震で、しかもそれはめちゃくちゃ大きな地震である。ことが予想された。
スタッフの携帯電話に地震情報が入り、震度7東北太平洋沿岸震源であることがわかる。

実は、その日、対談取材が控えていた。担当の女子は、交通が止まったなかで対応したが、取材時間が近いこともあり、連絡が取れず、取材場所までまずは行くことにして出発。歩いて30分弱の場所であったから。ライターも取材場所までは徒歩圏内に住んでいる。カメラマンは今回手配していなかったので、あとは、対談のお二人の連絡だ。どう考えても対談ができる状況ではなく、できれば電話で連絡を取りたいところだったが、時間的にもむずかしかった。結局、対談のおひとりは到着したが、もうひとりは無理で対談キャンセル。しかし、来週には再セッティングできたのでよかった。むしろ、いろいろな取材予定のコンサートが延期や中止となったので、その代案としてカメラマンを入れてページを拡大できた。

さて、地震で、事務所の中のものもかなり動いた。一番動いたののは私の心で、いやしかし、いざとなったら、てんでビビリで役に立たないのは私だったな。
幸い私のデスクの上だけはほぼ被害なしで、引き出しが少しずつ飛び出ていたくらいだったが、ほかの二人のスタッフのデスク上はさっぱりときれいに物が落ち、2つあるパソコンデスクからも上の物が崩れ落ちた。そのためにラジカセが床に落ち、MOやらDVDやらが床に散乱した。

片付け中


社長の部屋では、スチールのガラス戸付き本棚の上に置いた物が落ちた。しかし、何より一番は、浴室を書庫として、使っているのだが、そのスチール製の本棚が倒れ、その中に収納していた過去30年分の月刊誌バックナンバーが崩れ、浴室ドアを封印してしまったのが、困った。
まったくドアが開かなくなってしまった。
その後、各自が家族たちとの連絡をする。私はまず、一人暮らしの実家の父(群馬)に電話。やはりかなり揺れたけど、落ちる物のなく、大丈夫と確認。夫に電話とメールをする。電話は通じず。そのあと、会社の電話に息子がかけてくれる。携帯に出なかったから。安全とのお互いの連絡を取り合う。息子は夫に連絡が取れ、大丈夫だったとも伝えてくれた。こいつはなかなかこういうときは、使える奴だ。
携帯に、静岡の義姉から電話。家族は無事と使える。まあ、こんなところだ。施設にいる母は、大丈夫と信じている。連絡を取るのは控える。

さて、その後、余震も何度も遅い、怖さも続く。
とはいえ、命に別状があるわけでもなく、会社では電気も通じ、(ガスは使っていない)メールもインターネットも大丈夫で、倒れた物を治し、パソコンデスクが1つちょっと壊れたが、それもなんとか斜めっているけど直し、落ち着いた。何より会社のスタッフで驚きの声を上げたのは、とある楽器店の講座情報が地震のすぐあとメール送信されたこと。いつものように! なんとまあ、平常心の方であろうか。


社長は、近所を見回りに出かけ、夕方、取材の始末に出かけていたスタッフが戻り、今日はどうしようということに。社長と私は歩いて帰れるので、帰宅、残る二人が遠くから通っているため、帰宅はあきらめることに。
「おいしい物食べに行こう!」と女子二人も食事に向かうので、一緒に会社を出る。早くお店に入らないといっぱいになるかもねえ、ということで。寒くないようにして泊まるんだよと声をかけ、別れる。

私は、こういう仕事をしているので、深夜残業で自宅までの道はタクシーで何度も通っているし、ショートカットの道路も知っているし、以前は引っ越す前の家から自転車通勤もしていたので、余裕で歩いて帰る。

狭い道はそうでもなかったが、目黒通りには徒歩の人がたくさんいた。地図を持って歩いている人も多かった。
あいにく、ヒールの靴を履いていたのは残念だったが、まあ、仕方がない。
1時間くらいで、環七の大岡山商店街入口にたどりつき、商店街を行く。町の様子はいつもとそうかわらない。餃子の王将には、人が並んでいた。
東工大の学生さんたちは学内で泊まった人も多かったんだろうな。

駅の前では、なんだか宴会終わり風な団体がいて、早帰りしようね、みたいな雰囲気でちょっと和んだ。

酒屋でビールを買って、おばちゃんと話す。割れ物は落ちなかったのでよかったとのこと。
帰宅するや、すぐにマンションの隣の隣のOさんの家に行って、安否確認。Oさんは旦那さんが単身赴任で、お嬢さんと二人暮らし。大丈夫と聞き安心する。

夫はこの日、仕事で暗い部屋。
まずは、テレビとパソコンをつけ、風呂の用意(追い炊き)をし、一息つく。
家の中は、ガラス戸付きの木製本棚のガラス戸が少し空き、上のほうの物が少し落ちていたのと、本棚から数冊本などが落ちていたくらいで、ほぼ被害がなく、ほっとする。
簡単に片付け、風呂につかり、ビールを飲んで、食事を用意して、テレビを見る。怖さがずっと続いていて、ひとりが怖かった。
メソメソと泣きながらビールと食べ物(何食べたか忘れた)を取り、夫が12時ころ帰宅。
夫の職場は代々木上原で、歩いて渋谷まで歩き、ちょうど動き始めた東横線経由で帰れた。
こういうときに、家族は心強いなあ、と。普段はいてもいなくてもどうでもいい感じなんだけどね。

そんなこんなで、東北の状況は気仙沼の町が燃える様子をまんじりともせずテレビで眺め、朝になって、いったいどうなっているか心配だった。

友人のマーカナさんは、職場から5時間かけて徒歩帰宅。お疲れさまでした!


3月12日 土曜日

土曜日、日曜日とお休みだったのは、助かった。夫の仕事もキャンセルになり、夫は息子を「家に帰ってこい」と電話で恐喝し、息子も午前中には帰宅。息子のマンションの部屋は大きな被害はなかったそうで、少し物が落ちたくらい。
しかし、テレビで見る地震の被害は、あらゆる想定と想像を超えていた。

私は、翌日に予定されていた「立川・昭島マラソン大会」にハーフマラソンでエントリーしていて、この日を目標に走り込みトレーニングを行っていた。
けっこう頑張って、2月最終週には19キロ超を走って、自信もつき、満を持していたが、もちろん中止となった。しかし、本当に残念でもなんでもなく。むしろ、目標を持ってトレーニングできたことだけで、良かったと思っている。そういうことがないと、なかなか、1週間トータル40キロは走れない。

朝、何はともあれ、会社に泊まったスタッフの安否を確認。玉川上水の子は朝方帰宅できたと報告。春日部の子が大変で、南千住までしか電車で行けず、歩いているとメールあり。おいおい、歩いて帰れる距離じゃないよ! 実家のご両親が車で迎えにきてくれると言うが、道が混雑している。そのあと、落ち合えて帰れたとメールあり。よかった。ホッとひと安心。ただ、ひとりはパソコンが倒れて故障。テレビとしても使っているので、大変だ。もうひとりは、壁面本棚が倒れて、大変だったらしい。

さて、土曜日。実は、その前の週3月5日に掃除機のホールが割れて、使い物にならなくなり、掃除機を買うのが急務だった。大井町のヤマダ電機に息子と向かう。もちろん荷物持ちだ。昼時だったので、大岡山のそば屋で鴨せいろを食べ(息子のおごりだぜい! いい奴だ)、大井町線で大井町へ。
ヤマダ電機では、掃除機を選ぶときに息子の意見やお店の人の話を聞き、シャープのプラズマクラスターを出すサイクロン式のにした。その際に、電池を買うべきだったのだが、それを忘れたのは失態だった。掃除機のあと、冷蔵庫とテレビを買い替えなくてはいけない時期をずっとやりすごしているので、見て回る。テレビを見て回っているときだ。テレビ画面で、福島原発の事故のニュース。恐怖が背筋をふるわせた。なってこった! 
息子はそのまま家に戻り、私はスーパーへ。品物があまり入らないといった張り紙はあったが、お刺身などを買う。しかし、白菜のお漬け物や豆腐の棚が空っぽになっていたのは驚きだった。
家に帰って、防災態勢チェック。備えてある懐中電灯とラジオをチェックすると、電池が足りない。息子に電池を買ってきてもらう。コンビニはもうすでに在庫がなく、資材などを売る小売店でゲットして帰ってくる。
懐中電灯の数に余裕があるので、Oさんに声をかけると懐中電灯が欲しいというので、ひとつ分ける。旦那さんも単身赴任先の仙台も無事だそうでよかった!

3人で食事をして、テレビを見る、そんな夜。

3月13日 日曜日

掃除機で掃除。なんだかうれしかった。
テレビで地震の情報を得る。
息子は昼過ぎに帰宅。夫の仕事は相次ぎキャンセル。

3月14日 月曜日

計画停電については、イインターネットを使っている私でも、わかりづらくって、困っていた。
そこに息子のお助けメール。昨晩深夜、第4グループであることをメールしてきてくれた。頼んでもないのに、よく気がつく奴じゃ。

さて、今日からは
気持ちを切り替える。いつまでもへたれではいられない。
いつものように生活し、いつものように仕事をする。もちろんできる範囲で。それがいまできることだ。
幸い、池上線や目黒線は動いているし、山手線も動いている。まったく問題なし。
スタッフ女子2名は自宅待機。
その二人が担当する別冊の校了があったので、この日はその対応に追われ、単行本の原稿整理やイラストスペースのラフ割りに追われる。
7時過ぎ、夫から電話があって、原発がさらにやばいという。仕事やっている場合か、早く帰れと。
仕事をやっている場合でしょう? だって、いつものとおりに私はしたいのよ。できるんだから。できることを普通にしたいのよ。そうして、平常心を保っていたいのよ。それは大事なことではないのかしら?

3月15日 火曜日

昨晩早く寝たからか、朝は5時前から目が覚める。5時過ぎに起床し、テレビ。6時半頃ランニング30分。4日は知っていないと足首とか少し、堅い感じ。でも、やはり走るのは気持ちがいい。ランニング中は、マスクはできないが、花粉の影響はそうない。

いつものように出社。この日は、スタッフ二人とも出社できた。
会社には、テレビはなく、ラジオはラジカセがあるけど使っていないので、静かだ。

本当は、私はラジオが大好きで、仕事場でもラジオをつけていたいのよ。聞きながら仕事はできるし、そこからいろいろな情報も得ていた。でも、スタッフのひとりが超神経質で、音を出すと異常に反応するのね。それで、ずっとラジオをつけて仕事していた環境がその子のために音がしない環境になったの。それは仕方がないものねえ。我慢できる人がしないとね。だからそれはいいの。むしろ、こういうときには静かで助かるってもんだ。

今進行中の単行本のイラストをお願いしている網中さんのイラストが一部上がったとの連絡をいただき、取りに伺う。
仕事面では、この日に単行本のテキスト入稿予定だったので、帰社後は、頑張る。夕方、バイク便で入稿。
しかし、こういう状況で、印刷所もDPE制作会社も大変なことになっており、原発の影響による計画停電も始まり、もろもろが回らない状況だ。とくに出版では紙が足りない、ということが大きな問題なのだそうだ。
各社の出版物の納期に遅れが出る予想。

この日も早く帰宅し、早く就寝。
したがって、静岡の大きな地震にはぼんやり気づくも夫が電話を受けていたりしていたので任せて寝る。



お昼を作るので、まずはここまで。
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